瑠璃燈(るりとう)
林の中を歩いていた。あの人と一緒だった。
蝶を見た。僕たちの頭よりすこし高い梢を、縫うように舞っていた。
空色を、褐色の翳と黄色い斑紋で縁どった翅を持つ、大きな蝶だった。
「オオムラサキね」とあの人は言った。
彼女は、二藍色の着物に白い日傘をさしていた。
野山を歩くにはそぐわない格好だが、その時は別段おかしいとも思わなかった。
「瑠璃燈みたい」あのひとがつぶやく。
「るりとう?」
ふと思いついたように高度を下げると、蝶は数米先のクヌギの幹にとまった。
「ああして樹液を吸うのよ」
いっしゅん日傘の奥で、ととのった歯ならびがこぼれた。そこから洩れた樹液という言葉に、なぜか幼い胸が汗ばんだ。
気がつくと、僕は捕虫網の柄を握りしめていた。
「とってはだめよ。そっとしといておやりなさい」
あの人の制止に耳をかさず、僕は蝶にしのびよった。こまかく翅をとじひらきしながら、いっしんに樹液を吸っている。
「いけません。もどってきなさい」
くりかえす声を無視し、僕は翅のリズムを測りつづける。
「だめよ」という叫びと、網が蝶を覆ったのは同時だった。
「ほら」と、ふり向いた。そこにあの人はいなかった。
「叔母さん」と呼ぶ自分の声が、大人のものであることに気づいたとき、オオムラサキは悠々とクヌギの幹から飛び立った。
すべてが光と色のたわむれだった。
蝶より地味な二藍に身を包んだあの人の姿こそ、瑠璃燈が映した幻影だったのだ。若く、だれよりも美しかったあの人の……。
「おねがいだ、もうすこし」――哀願もむなしく、瑠璃燈は高く宙をすべり、木の間のくらがりへと消え去った。
了
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